parn1_kayoko

(ナレーター:創価ルネサンスの年。笑顔と希望に溢れ、新たな年が開幕しました。池田先生の下には喜びに満ちた創価の友が集い合い、芸術部のメンバーも心温まる激励を受けました。)

 

岸本加世子

(ナレーター: ドラマやCMで大活躍の 岸本加世子さん。 独特のキャラクターを持つ彼女はお茶の間の人気者です 。そんな彼女も創価学会の女子部員として学会活動に励んでいます。) 

「家庭訪問とかも入れるんですか?」 岸本「家庭訪問はねぇ…年明けてから一緒に、行ってもらったほうがいいかな…」

 

母が昭和32年に静岡で入信できまして、で、私が昭和35年の終わりに産まれたんですけど、あのーそのときに母が骨盤を損傷してる障害者なもんですから、私が、あのー産まれるときに、あのーすごく一生懸命題目をあげてくdくれて。で、医者が「無理だ」って言ったんですけど、普通分娩で、あのー未熟児だったんですけど産んでくれて、よく母が題目を真剣に上げてる背中を見て、そいで、育ったんですよねー。

 

「…じゃないww」「違うくないよwもう一回ね」「あのね体力がついたら」(一同爆笑) 

(ナレーター:学会二世として元気に活動する岸本さん。しかし、かつては学会活動から遠のきかけたこともありました。)

 

15歳で芸能界に飛び込んだときには、あの寮の生活だったんですプロダクションの。で、もちろんご本尊様ないし、まったくもう誰ひとり知らない芸能界にポツンと入ったもんですから。で、母が芸能界に入ることは反対はしなかったんですけれど「先生とご本尊様だけはどんなところにいても忘れちゃいけない」って。それをね母がもう再三、私に手紙や電話で、そのことしか言わないんですよ。でうるさいなぁw思って。それがすっごく煩わしかったんですけど、で、一時反発してて、信心してなくたって成功してる人はいっぱいいるし、当時私はもう、誰も信用してなかったですし、自分一人で頑張っていくんだって。自分さえやる気があれば、自分さえ努力すれば、必ず芸能界で成功するんだっていう思いがあったんですね。 

で、そんな時に、二十歳になって芸能界入って5年目のときに、あのー、池田先生にお目にかかることができまして、先生との出会いがなかったら、きっと自分の中のつまらない、あのー…こう理屈でね…ただ理想だけを追いかけてて、こう、自滅しちゃったと思うんですけど、先生にお目にかかってから、ほんとにあの学会の素晴らしさとか、こう素直に、なれるようになりまして。ほんとに信心自分が始めたのは先生にお目にかかったあの日から私は信心できるようになったんだなっていう、いう思いでいます。

 

岸本「本部の別館において、あの代表メンバーの…」 

(ナレーター:地域では女子部の副本部長として 後輩の育成に心を配る 岸本さん。いつも明るく爽やかな姿は、女子部から善きお姉さんとして、また善き相談相手として慕われています。) 

岸本「一番新しい『ある日ある時』を頂戴しまして…」

 

母が突然脳溢血で倒れまして、で、お医者さんに「あと三日の命です」って言われたんですね。あと三日で死ぬっていう現実が目の前に立ちふさがったときに、もう気がついたらベッドの下で、病院で、ずっと題目を上げてたんですね。だからあの時にほんとに力ある信仰がなかったら、ただ、もう、こう、狼狽し現実を受け止められないままに母を失ってたんだなって(スー)、思いがすごくするんですけど、あの時はほんとに先生と(スー)ご本尊しかなかったですね。 

で、母がもうとにかく三日の命だって言われたんですけれども、あのー、命を取り留めまして、で、でも障害者っていう身体の上に、さらに脳溢血によって半身不随になってしまったんですけれども、でも母が「もう一回歩きたい」っていう風に、すごくあの頑張りまして、で、リハビリがすごく辛かったみたいでね。その一番辛いときに、先生が激励してくださり、「先生が見てくれてるから頑張ろう!」って思えて、母はなんていうかその負けじ魂で「絶対に歩いてみせる」って。で、すっごい頑張って、病院の中を折伏して歩いたんですね。 

そしたらほんとに歩いて、杖一本で歩いて退院することができたんですね。現実に打ち勝つことができたのは、やっぱりその人生の師によって、がいなかったらやっぱり分かんなかったでしょうね。信心って言うのはほんとにすごいなって。叶わないことはないんだなって。母は病気に勝ち、自分に勝ったんですね。だから信心って言うのは、自分自身に勝つことなんだなっていうことを、母に教わりました。

 

(題目の大合唱) 

(ナレーター:その後、7年も寿命を永らえて、福運輝く感謝?の人生を送った母、幸子さん。今は亡き母の強き公布への思いを胸に抱きしめて、今日も岸本さんは明るく創価の道を歩みます。) 

「バンザーイ!!」

 

追加:

はい、ストップ。失礼~。???お願いします(小声)

あなた良かったよ!お疲れさま。ありがとうございます。

独立の、独に、楽しむって書いて

なんとその後ろに、コマが

創価復興的那年。

充满希望的笑颜、新的一年开幕了。

在池田老师的招募下集结了充满喜悦的创价友人

艺术部的成员也受到了温心的鼓励。

 

岸本加世子

在电视剧和CM非常活跃的岸本加世子小姐。

拥有独特性格的她在茶道间十分有人气。

同时她也作为创价学会女子部员鼓舞着学会活動。

也有做家庭访问什么的吗?

家庭访问啊...过年後再一起...去比较好吧...

母亲在静冈昭和32年的时候入信了

然后、我在昭和35年快结束的时候出生了 

那个时候母亲有骨盘损伤、出生的时候

非常拼命的把經文念了出來。

然后、医生说「沒辦法」

是普通分娩、還提前早产了

经常看着母亲很拼命地念經文的后背、就這樣將我抚养成人。

「不是www」

「不是啦w再來一回」

「那個、体力不支的話的話」

作为学会二世积极参加活动的岸本小姐。

但是、曾经有远离过学会的事情。

15岁进入艺能界的时候、那个宿舍的生活就是工作室。

当然也没有佛祖大人、到了一个谁都不认识的艺能界。

不过母亲并没有反对进入艺能界

「不管去哪里都不能忘记老师和佛祖大人」。

母亲再三在电话和信里只有說這件事。

然后覺得好烦呐w这么想。

于是很烦躁就一时有了逆反心理

即使没有入信的人也有那么多成功人士。

当时我也已经谁都不相信了、自己一个人加油好了。

只要自己有干劲的话、自己努力的话

肯定可以成功进入艺能界的这么想。

之后、到了20岁进入艺能界已经第五年的时候

那个、见到了池田老师。

如果没有见到池田老师的话

肯定认为自己很无聊...这种理由...

只是去追逐理想、最后、自身灭亡这样想

见到了老师后

真的那个才率直地了解到学会是多么好什么的。

可以说我真的入信是见到了老师的那天才开始的。

关于本部的別館方面、那个代表成员的...

在部分地区作为女子部的副部长為后辈的成长而費心的岸本小姐。

一直都是很阳光直爽的姿态

作为女子部善行的大姐姐

又作为善行的交談对象被愛戴着。

給了我最新的「某天某时」...

母亲突然得了脳溢血倒下了

然后、医生说「还能活3天」

还有三天就要死的现实在眼前出现的时候

注意到的时候已经在医院的床下了

生着病、一直在医院念誦經文。

所以那个时候真的没有信仰的话

只能、这样、狼狈的接受现实地失去母亲

记得非常清楚、那个时候真的只有老师和佛祖大人了。

之后、虽然说了母亲还有3天能活

那个、即使保住了性命但是病态的身体在加上脑溢血和半身不随

但是母亲好像是在说「还想在走一次」地非常的努力

複健看上去非常的痛苦。

在那非常痛苦的时候、老师激励了母亲

说「老师在看着你好好加油!」想到这里

母亲那决不认输的精神说「绝对要走給你看」。

然后、非常努力地在医院里跌跌撞撞(醒悟)(边走边传教)地走了起来。

[注]折伏:佛教用语①惩治恶人②自我醒悟③引导众生(劝诱)

之后真的用走的、用一根拐杖走的成功出院。

能够战胜现实、果然是因為有人生的老师呢

如果没有的话肯定会不知所措吧。

信仰真的是好棒啊。没有办不到的事情。

母亲战胜了病魔、战胜了自己。

所以信仰、就是要战胜自己、被母亲这样教导了。

这之后、延长了7年的寿命。

送走了母亲幸福光辉的人生。

现在抱著去世母亲的坚强的思想

今天岸本小姐也開朗地向创价之道走去。

万岁~!

 

追加:

好、stop!失礼了~。???拜托了

你很棒哦!辛苦了。非常感谢。

独立地、写着「享受」

没想后面…竟是池田老师…